若し熱のためではないとすれば、それはこの天気のせいだ、このひどい風のせいだ。と彼は思った。全くその日はひどい風であった。あるかないかの小粒の雨を真横に降らせて、雲と風自身ちが、吹き飛んでいた。そのくせ非常に蒸し暑かった。こんな日には、彼は昔から地震に対する恐怖で怯えねばならなかったのだけれども、今日はこの激しい風のためにその点だけは安心であった。しかし、風の日は風の日で、又その特別な天候からくる苛立たしい不安な心持が、彼を胸騒ぎさせたほどびくびくさせた。
猫よ、猫よ。あとへあとへついて来い!
猫よ、猫よ。おくへおくへすっこめ!
ふと、激しく吹き荒れる大風の底から一つの童謡の合唱が、ちぎれちぎれい飛んで来た。それらは風のかあtまりに送り運ばれて、杜絶え勝ちに、彼の耳もとへ伝わって来たように思われた。けれども、それはやはり幻聴であったのであろう。それは長い間忘れていた彼の故郷の方の童謡であったから。
田園の憂鬱 『佐藤春夫』著
【あらすじ】
都会の重圧と喧騒に疲れた文学志望の青年が、愛人と2匹の犬、1匹の猫を連れて、武蔵野の田園へと移りする。日
陰で見つけたバラの株に、詩人ゲーテの詩句を託して、自らの芸術的開花を占おうと育てはじめるも、ふくらんだバラ
のつぼみは、虫食いだらけであった。
【音読してみよう】
『大風の底』『童謡の合唱が、ちぎれちぎれに飛んで来た』など個性的な表現が多く、読むたびに心に響いてきます。
自分が幻覚に襲われたような気持ちになって感覚を膨らませ、普段と違う角度から世の中を見るように意識して読んで
みるといいですね。




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