健康あっての教師人生

⭐️教壇に立ち続けるために、『今』できること⭐️

奥多摩の滝で1390/MAY.23

私は思うんだけど、ぎりぎりのところまで『死』に近づく瞬間が人にはあるのではないか。もちろん実際にあやうく死にかけたというようなケースもあるだろうけど、それとは別に、とくにこれという理由も関連性もなく、出し抜けに死そのものの存在をすぐ間近に感じる、ということです。

人はふだんはあまり死ぬことなんか考えずに生きている。当たり前だが。でもあるとき、何かの成り行きで死の息吹をふと首筋に感じる。『あっそうだ!自分たちはごく当たり前に生きて、お昼にカレーライスを食べて、冗談を言って笑っているけれど、ちょっとした風向きの変化で簡単に消えてしまうようなはかない存在なんだ』と実感する。それにあわせてまわりの世界の風景が、一時的にせよがらりと姿かたちを変化させてしまう。

大学3年の秋に9つ年上の彼女とそういう体験をした。それは秋の紅葉が鮮やかな奥多摩のことであった。

忘れもしない、よく晴れた秋の午後で、雲一つなく、世界中が余すところなくクリアに見えた。ごつごつした山の稜線や、松の木立の中を2人で歩いていた。

どんな話をしていたかは忘れたが、おそらく気取った話をしていたんだろうか。手をつないでしばらく歩き、彼女が手を離した。『右側の道通れるかな』と聞いてきたので、『ちょっと待ってね。見てくるから』と足を踏み入れた瞬間、世界が一瞬で変わった。

身体が間違いなく浮遊していた。自分がこのまま死んでしまったとしてもおかしくないと生まれて初めて感じた。自分にとっての世界はすでにほどけてしまって、これから先の世界は私とは無関係に進行していくんだな、と。自分が透明になって肉体を失い、五感だけがあとにのこっていつか残務処理みたいに世界を見納めているのだという気がした。

よく死ぬ瞬間になると、人生が走馬灯のように巡ってくるというが、正にそうだった。『お母さん!!』とは叫びはしなかったが。

目をつむり、あとはどれだけ痛みに絶えて亡くなるか考えようとしていた時に

ザバッーーーン。

この上から落ちました

どうやら自分の落ちた場所は、滝の中であった。なぜか両足の打撲だけで済んだ。

そして生き続けているものとして、自宅アパートで、彼女の作ったスパゲティを食べながら生きていることに涙し眠った。

しかし、そこにあった死の感触は、今でもまだ自分の中に実感を伴って残っていて、死について思うとき、いつもあの時の落ちた瞬間と滝の轟音と奥多摩の空の風景が頭に蘇ってくる。

というか実際の話、あのときに私の一部は死んでしまったんだと思う。澄み切った奥多摩の紅葉の綺麗な山道で、とても静かに。

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